COCON KARASUMA誕生ストーリー

開業20周年記念

COCON KARASUMA
誕生ストーリー

戦前のモダニズム建築を再生し、
四条烏丸に新しい
ランドマークができるまで。
4年半のプロジェクトを振り返る

四条烏丸エリア初の複合商業施設として、2004年に開業したCOCON KARASUMAは、2024年12月で20周年を迎えます。1938年(昭和13)築の京都丸紅ビルをリノベーションによって再生させ、「地域ににぎわいを創出したい」という思いから誕生した当館が、記念すべき節目を迎えることができるのは、ひとえに多くの皆さまのご愛顧とご支援によるものです。心より感謝申し上げます。

当館の20周年は、建物竣工から86周年となります。これからのCOCON KARASUMAを考える上で、歴史あるビルを大切に守り、次代に受け継いでいくこともわたしたちの重要な責務だと考えます。

ここでは開業20周年を記念し、旧ビルの取得から開業まで、地域社会における最適解を求めて奔走した4年半を振り返る「COCON KARASUMA」の誕生ストーリーをご紹介します。企画立案や設計、施工の現場で奮闘してくださった方々へのインタビュー、膨大な議事録、施工記録を通して、当時の関係者の方々の「ビル再生・地域再生にかける思い」を伝えていくことで、大切な歴史のバトンを未来につなぐ一助となれば幸いです。

2000年3月、プロジェクト始動

解体かリノベーションか?
四条烏丸の未来を見据え、
議論を重ねた3年間

COCON KARASUMAの前身である京都丸紅ビル

COCON KARASUMAの前身である京都丸紅ビル。

20世紀の最後の年、2000年。COCON KARASUMAの開業プロジェクトはこの年の3月、当施設の運営会社(ケイアイ興産)が呉服の製造販売会社・京都丸紅株式会社の移転に伴い、1938年築の同社の本社ビル(通称 京都丸紅ビル)を取得したことにはじまる。当時の四条烏丸といえば、典型的な金融・ビジネス街。夕方や休日は人通りが減り、にぎわいの中心は河原町に奪われていた。それゆえに「この地に新しいにぎわいをもたらし、地域を活性化させる」ことが、関係者の切なる願いであった。
 

60年前の設計図の発見が、
運命を変えた

実は当初、既存のビルを解体し、新たなビルを建てる方向で計画が進んでいた。それも、日本を代表する建築家による基本設計が終わり、1階にはグローバルなファッションブランド、他フロアには若者向けの飲食店を誘致するプランも検討されていた。現在とはあまりに異なる青写真だが、当初はこれが経営面でも、マーケティング面でもベストプランと考えられていたのだ。実際に役所への届出も行われ、新ビル着工に向けた準備が着々と進んでいた。

ところが2000年末、紛失したと思われていた旧ビルの設計図が発見されたことで、計画は大きな転機を迎える。図面から旧ビルが想像以上に堅固に建てられていたことが明らかになり、保存・再生に向けた議論がはじまったのだ。さらに実地調査を進めるなかで、建て替えせずとも、現行の建築基準法に準拠できる耐震性、耐久性を補完できる可能性が見えてきたのだった。
 

丸紅商店京都支店新築工事設計図 第壹階平面図 昭和11年2月15日

丸紅商店京都支店新築工事設計図 第壹階平面図 昭和11年2月15日。
制作:長谷部竹腰建築事務所(現在の株式会社日建設計)

建て替えか、リノベーションか——。外部の専門家を交えた議論を進めるなかで、大いに揺れたプロジェクトチーム。それぞれに利点や課題があり、結果として約2年の歳月をこの検討に費やすこととなった。正式にリノベーションへの方針転換が発表されたのは、購入から3年が経過した2003年の春。最終的な決め手は「戦前・戦後・現代という時代の証人でもあるこの建物を、地元の方々の大切な思い出と共に次代に引き継いでいきたい。旧ビルの再生を地域活性の核とすることが、“四条烏丸ににぎわいを創出する”という事業の基本理念に調和するであろう」という思いであった。

京都丸紅ビルは、大手商社・丸紅の前身である丸紅商店の京都支店として、当時の最新技術やデザインを取り入れて建てられた建物である。戦前の京都を代表する壮麗なモダニズム建築で、竣工当時は京都一の高さを誇ったほど。戦後はGHQに接収され、司令部が置かれた数奇な歴史もある。この歴史あるビルの保存を決めるまでは、傍から見れば必要以上に長い時間だったかもしれない。だが結論を急がず、当事者たちが手探りでこのビルや地域の未来について考える時間を持てたことは、決して無駄ではなかったはずだ。このプロジェクトで何を一番大切にすべきかを、徹底して考え抜いた期間だったといえるだろう。
 

京都丸紅ビルの竣工当時の様子

京都丸紅ビルの竣工当時の様子(上:外観、左下:玄関、右下:1階発送場)。従来の問屋のイメージを一新するほどの最新式の建物だったことがわかる。
写真提供:京都丸紅株式会社
出典:丸紅通史(丸紅株式会社)、株式会社丸紅商店京都支店 竣工記念

京都丸紅ビルの竣工当時の様子

京都丸紅ビルの竣工当時の様子(上:外観、中:玄関、下:1階発送場)。従来の問屋のイメージを一新するほどの最新式の建物だったことがわかる。
写真提供:京都丸紅株式会社
出典:丸紅通史(丸紅株式会社)、株式会社丸紅商店京都支店 竣工記念

時流を捉えた、コンセプトづくり

新しい価値は自らつくる。
非アパレルを掲げ、
京都らしいライフスタイル提案へ

1階 インセンスショップ「Lisn」1階 インセンスショップ「Lisn」

1階 インセンスショップ「Lisn」。

2001年以降、リノベーションを軸とした議論がはじまるなか、プロジェクトチームはこのビルの「新しいコンセプト」について熟考を重ねていた。当初から「この地域で働く人、暮らす人に愛されるビルにしたい」という意識を共有していたが、この思いはひとりのキーパーソンの信念と情熱、実行力によって、確かなものとへと肉付けされていった。
 

「非アパレル」を打ち出し、
暮らしに寄りそうテナントを誘致

再開発の総合プロデュースを手掛けたのは、企画・コンサルティング会社のリンクアップ代表 今井雅敏氏。2001年から本プロジェクトに参加してきたブレーンで、旧ビルのデザイン性、文化的価値を高く評価し、建物の保存・再生を説得し続けてきた人物でもある。

今井氏が選んだのは、トレンドの入れ替わりが激しいファッションをあえて避ける「非アパレル」の戦略。代わりにコンセプトに据えたのは、心豊かな暮らしを求める大人世代に向けた「新しいライフスタイルの提案」であった。

「当時の百貨店では、長引く経済停滞の影響で、効率の悪いインテリア売り場を縮小する傾向にありました。そのため、家具を買うために京都から大阪に出かけるという人も多かった。一方で、室町界隈では呉服産業の衰退を受けて高級マンションが増え、住民が増加していた。上質な暮らしのアイテムへのニーズは高まる一方だと感じていたのです。古来、歳時記や季節のしつらいを大切にしてきた、京都の人々との親和性もよいだろうと考えました」

今井氏は、当時の商圏の変化も見逃さなかった。2001年初頭に烏丸御池に新風館が誕生したことを契機に、三条通や東洞院通などに路面店が増え、商圏が徐々に西へ広がりはじめていたのだ。それも河原町や木屋町の喧騒を避け、ゆったり散策を楽しみたいという人たちが多かったという。四条通の大丸よりも西側はまだ閑散としていたものの、「起爆剤さえあれば、新たな人の流れが生まれると直感した」と今井氏。四条烏丸を新しい商業ゾーンの起点にしたい。オフィス街であり、祇園祭の鉾町に隣接した立地だからこそ可能な「オンリーワンの体験」を提供したい——こうした思いを胸に、今井氏はテナント候補への熱心なアプローチを進めていった。

当初は「ビジネス街では集客に不安がある」と尻込みされることも多かったが、強い信念を貫き「ここにしかない価値を発信すれば、自ずとファンがついてくる。その価値を一緒につくり上げませんか」と呼びかけ続けた今井氏。やがて彼の情熱や事業の理念に共感する担当者が増えはじめ、「古今」の名を冠する施設ならではの、普遍的でボーダレスな価値を発信するテナントが揃うこととなった。
 

2014年当時の増築棟 2階(2021年のセルフリノベーション以前の姿)

2014年当時の増築棟 2階(2021年のセルフリノベーション以前の姿)。

ビル再生 × リノベーション

建築家 隈研吾氏との
幸せな出会い。
二つの時が重なる建物の誕生へ

開業当時の増築棟 2階ファサードを烏丸通より望む。

開業当時の増築棟 2階ファサードを烏丸通より望む。

商業ビルにおいて、コンセプトと並ぶ重要なファクターが、“建物の顔”となるファサード(外観)と館内のデザイン設計である。2002年秋、コンセプトづくりと並行して設計発注の準備を進めていたプロジェクトチームは、この難しさに直面していた。3社による設計コンペを実施するも不調に終わり、計画が振り出しに戻ってしまったためである。「斬新さだけにとらわれると、元のビルの良さが失われてしまう。一方で、それに萎縮してしまうと冒険ができず、感動が生まれない」(当時の企画担当者)。そこで、新たなブレークスルーを求めてチームが白羽の矢を立てたのが建築家 隈研吾氏であった。
 

2つの時間の重層感を表出させる

隈研吾氏といえば、言わずと知れた建築界の世界的な巨匠。当時既に時代の寵児として、世界中で活動していた隈氏は、バブル崩壊後の「人と建築の関係」を見つめる独自のアプローチで高い注目を集めていた。日本の伝統工法を活かした“木の建築”の探求がそのひとつであり、隈氏が後に“負ける建築”と表現したように、自己主張の強い建築ではなく「社会と共生し、周囲の環境にとけ込む建築」を目指す姿勢にも、チームは大いに共感していた。

旧ビルの下見を経て、隈氏から届いたのは快諾の返答。隈氏は、建物の歴史・文化的価値を誰よりも深く理解し、旧ビルの一ファンとなってくれていたのだった。なお、このプロジェクトが隈氏にとって京都での初仕事であった。
 

アトリウムのカスケード(滝)の原寸見本(モックアップ)を確認する隈研吾氏(2004年6月)。

アトリウムのカスケード(滝)の原寸見本(モックアップ)を確認する隈研吾氏(2004年6月)。

開業当時(2004年12月)に完成した全長25mのカスケード(滝)(2021年7月撤去)。

開業当時(2004年12月)に完成した全長25mのカスケード(滝)(2021年7月撤去)。

隈氏がリノベーションのテーマに掲げたのが「過去と現在、二つの時を重ねる建築」。その象徴が現在、四条烏丸のランドマークとして親しまれている唐長文様「天平大雲」をあしらったガラスのファサードである(なお2024年は、天平大雲の文様を代々受け継ぐ唐紙屋・唐長の創業1624年からちょうど400年目を数える)。ソリッドな石とタイルで構成され、建物の歴史や記憶を宿す旧ビルの外壁に、“薄い皮膜”をイメージしたガラスを重ねることで時間の重層感を表現。「新旧のファサードが時間を超えて一つの建築の顔となることを目指した」と隈氏は振り返る。

新施設の名称「COCON KARASUMA(古今烏丸)」及びロゴマークも、これらのデザインアイデアから着想されたものである。アートディレクター 水野学氏(good design company)によるロゴでは、伝統的な筆文字と現代のレタリング文字を融合させることで、力強く目立つことよりも洗練された上品さが表現された。

なお、開業時に加わった増築棟(アトリウム)は2021年7月、ポストコロナ時代の「サスティナブルな街と建築のありかた」を見据えたセルフリノベーションで、新たな装いへ生まれ変わっている。隈氏とCOCON KARASUMAの2度目のタッグで、過去と現在という時間のレイヤーに、未来という要素が加わったのである。(詳細はこちら
 

セルフリノベーション

セルフリノベーションにより、ガラスファサード24枚を外して、室内と屋外がゆるやかにつながるテラスを新設。雲をイメージした木のパネルを浮かべ、新旧のデザインが合わさることで新しい烏丸通の顔をつくった(2021年7月)。

開業工事の舞台裏

歴史あるビルの再生を支えた
施工のプロたちの
見えない工夫と努力

左:増築工事中のアトリウム(右手に見えるのが旧ビルの外壁を取り込んだ壁)。 右:改装前の旧京都丸紅ビルの内観。

左:増築工事中のアトリウム(右手に見えるのが旧ビルの外壁を取り込んだ壁)。 右:改装前の旧京都丸紅ビルの内観。

増築工事中のアトリウム

増築工事中のアトリウム(右手に見えるのが旧ビルの外壁を取り込んだ壁)。

改装前の旧京都丸紅ビルの内観

改装前の旧京都丸紅ビルの内観。

記憶に残る建築、再生プロジェクトの裏側には必ず、腕利きの職人や技術者、現場を統率する優れたリーダーの存在がある。COCON KARASUMAの施工工事もまた、彼らプロフェッショナルたちに支えられていた。ここでは、オフィス街という密集地、異例の短期工期などの制約に直面するなか、一切の事故も遅延もなく、最高のクオリティで仕上がった舞台裏を紹介したい。
 

環境や安全に配慮しながら、
標準工期の62%短縮を実現

当時の工事範囲を示した図。地下鉄連絡通路も含め広範囲に及んだ。

COCON KARASUMAの開業工事は2004年4月着工、11月末竣工。さまざまな事情を加味して決定したスケジュールだったが、8ヶ月の工期は、標準工期13ヶ月の62%という異例ともいえる短期工期であった(現行法ではまず不可能であることはいうまでもない)。この施工を手掛けたのが、大手総合建設会社の竹中工務店。現場を統率したのは、当時の作業所長 中尾和昭氏であった。中尾氏はこれまで関西圏の高層ビルやホテル、スタジアムなど数々の大型プロジェクトを率いてきた施工のプロフェッショナル。情熱にあふれた温かな人柄で職人を鼓舞し、現場の士気を上げ続けてくれた中尾氏との出会いも、プロジェクトチームにとって幸せな縁だったといえるだろう。
 

左:間仕切りのレンガの解体工事。 右:屋上にクレーンを設置し、昼夜を通して搬出や荷揚げを行った。

左:間仕切りのレンガの解体工事。 右:屋上にクレーンを設置し、昼夜を通して搬出や荷揚げを行った。

間仕切りのレンガの解体工事。

間仕切りのレンガの解体工事。

屋上にクレーンを設置し、昼夜を通して搬出や荷揚げを行った。

屋上にクレーンを設置し、昼夜を通して搬出や荷揚げを行った。

実際の工事では、3交代・24時間体制を敷き、解体工事と新設工事を同時に進行することで工期の短さをカバー。もちろん、さらなる安全対策と周囲の環境を一番に考え、騒音や粉塵の飛散を防ぐ対策に力を入れたことはいうまでもない。「オフィス街での工事で大きな建設機械が使えなかったため、2〜8階の解体工事と解体材の搬出はすべて人力で行いました」と中尾氏。報告資料によれば、約14,500㎡の解体面積に要したのは延べ5,600の人工。まさに人海戦術で乗り越えた賜物だった。
 

左:増築棟の駐車場スロープ工事。 右:人力で解体材を搬出するために設置した仮設ステージ。

左:増築棟の駐車場スロープ工事。 右:人力で解体材を搬出するために設置した仮設ステージ。

増築棟の駐車場スロープ工事。

増築棟の駐車場スロープ工事。

人力で解体材を搬出するために設置した仮設ステージ。

人力で解体材を搬出するために設置した仮設ステージ。

洗って直して、磨き上げて。
輝きを取り戻した70年前の建材たち

左:現在の2階。旧ビルの寄木フローリング移設後の研磨の様子。 右:研磨・塗装を経て美しくよみがえった寄木フローリング。

左:現在の2階。旧ビルの寄木フローリング移設後の研磨の様子。 右:研磨・塗装を経て美しくよみがえった寄木フローリング。

現在の2階。旧ビルの寄木フローリング移設後の研磨の様子。

現在の2階。旧ビルの寄木フローリング移設後の研磨の様子。

研磨・塗装を経て美しくよみがえった寄木フローリング。

研磨・塗装を経て美しくよみがえった寄木フローリング。

COCON KARASUMAでは、竣工当時に用いられたタイルや石、木材などの建材が、可能な限り大切に再利用されている。だが言うは易く、行うは難し。そのために、職人たちが惜しみなく注いだ手間と技は枚挙にいとまがない。そのひとつが、南洋のイペ材を用いた「パーケットフローリング(寄木の床)」。旧ビルの5・6階で使われていたもので、この風合いに魅了された隈氏の提案で、商業ゾーンであるB1階〜3階に移設されたものだ。

「約3,200㎡分を1枚ずつ手で取り外しては、裏面のモルタルを剥がし、4枚ごとを1セットにしてひもで括って保管していきました。新たに貼り替えた後は、全体を研磨して凹凸をならし、オイルステンを塗布して仕上げへ。効率でいえば、新しく床を張る方がはるかに楽な作業だったことでしょう。しかし床材は、直に身体で感じることのできる建築素材。隈先生が思い描いた通り、視覚で感じる以上に建物の記憶や時間を感じさせてくれる存在となったと思います」

一方、外装のタイルは、竣工当時に手焼きされたものがそのまま用いられた。「安全性を担保するため、全壁面(4,200㎡)の打診調査を行い、不具合に応じて樹脂注入や張り替えを行いました。光触媒による汚れ防止コーティングも行っています」(中尾氏)。一方で窓枠は、竣工当時のデザインを活かすため、既存のサッシに新しいサッシを重ねる「カバーリング技法」を採用。戦前のサッシはサイズが微妙に異なるため、300箇所以上すべて採寸し、サイズが微妙に異なる14種類の新サッシをつくって対応したという。

左:手作業で行われた、寄木の床材の取り外し作業。 右:外壁の補修では、長年保管されていた竣工時の予備タイルが活躍した。

左:手作業で行われた、寄木の床材の取り外し作業。 右:外壁の補修では、長年保管されていた竣工時の予備タイルが活躍した。

手作業で行われた、寄木の床材の取り外し作業。

手作業で行われた、寄木の床材の取り外し作業。

外壁の補修では、長年保管されていた竣工時の予備タイルが活躍した。

外壁の補修では、長年保管されていた竣工時の予備タイルが活躍した。

「数ヶ月に一度、仕事を早く切り上げて、屋上で職人さんの慰労会をしたのもよい思い出です。施主の皆さんも差し入れを持って参加してくださり、にぎやかなひとときでした。完成後、別の現場で当時の職人さんと出会うこともありましたが、誰もが口を揃えて「苦労はしたが、良い仕事ができたと胸を張れる現場だった」と語っていました。彼らにとっても、記憶に残る現場だったのでしょう」

こうして無事に完成を迎え、2004年12月4日に開業の日を迎えたCOCON KARASUMA。この日、往年の輝きを取り戻し、新たな息吹が注ぎ込まれたこのビルを眩しそうに見上げていた関係者や地元の方々の笑顔を、チームは決して忘れることはないだろう。
 

開業当時の外観(2004年12月撮影)。

開業当時の外観(2004年12月撮影)。

20周年からその先へ

わたしたちのビジョンと
ありたい姿

四条烏丸の地に「新しいにぎわい」をもたらす起点となることを目指し、始動したCOCON KARASUMA開業プロジェクト。「古」と「今」が重なる空間として産声を上げ、2021年のセルフリノベーションで新たに「未来」にも視野を広げた当館ですが、この20年間を振り返ると、近隣には新たに複数の商業施設が誕生し、夕方や休日にも多くの人が行き交うように。次第に活気を増す街の姿に、手探りながらのわたしたちの一歩は間違いではなかったのだと感じられるようになりました。

これからも続く都市の営み、四条烏丸の未来。2024年12月に開業20周年を迎えるにあたり、わたしたちは今後のありたい姿やビジョンを、「環(めぐる)」という言葉に込めて発表しました。今という瞬間はやがて過去になり、遠い先だと思っていた未来が今となる。途切れることなく循環しつづける時間、人と人、コトやモノとのめぐりあいを慈しみ、「古きよきもの」を今に受け継ぎ、「新しいエッセンス」を加えて未来に託していきたいと考えています。

では、その時々にどんなエッセンスを加えていくべきか? その答えを「毎日の生活を、少し豊かにする」という、当館の基本コンセプトに立ち返ることで探求していくつもりです。豊かさの定義は時代によっても、人によっても変わります。近年はより精神的なもの、自然との関わりへシフトしつつありますが、今後もその中身は変わり続けていくことでしょう。こうした変化や循環をしなやかに受け入れながら、これからも皆さまの毎日の暮らしに寄り添い、心地よい時間や空間を提供して参ります。21年目からのCOCON KARASUMAもどうぞよろしくお願いします。
 

20周年からその先へ
20周年からその先へ

<クレジット>
取材・掲載協力:
隈研吾建築都市設計事務所、京都丸紅株式会社、株式会社竹中工務店、株式会社リンクアップ、中尾和昭氏
 

参考資料:
「2006年度BELCA賞 ベストリフォーム部門 応募作品 COCON KARASUMA(古今烏丸) 説明書」
(ケイアイ興産株式会社、隈研吾建築都市設計事務所、株式会社三信建築設計事務所、株式会社日建設計、株式会社竹中工務店)、
京都経済新聞 連載「COCON KARASUMA 誕生 1938-2005〜四条烏丸物語〜」(2005年、京都経済新聞社)、
『GA Japan』73号(A.D.A. EDITA Tokyo、2005年3月)、『新建築』2005年3月号(新建築社)